スピリチュアル系で重い波動を手放して軽くなることについて
いろいろな所で目にします。
波動が軽い、重い等を判断してできれば重いものを捨てて軽やかになろうよ
というとても嬉しい、ありがたいお話です。
なぜならあまりにも重い状態だと、中庸な適切な判断力さえ働かず
自分にとってふさわしい事を選択して行動するという基本的な在り方さえ見失ってしまうのが
人間の常だからです。
私も若かりし頃、こういうお話にずいぶん助けられたわー
と思い出してしまいました。
現実が大変だったりすると、救われますもんね。こういう軽い波動に。
憧れます、こういう素敵感。
なので重すぎる状態はやはりよくないな、と。
では、反対に、軽すぎるのはどうなんだろう?
最近思うのは、嫌いな人の存在って関わりたくないけれど必要ではあるのだな、という事です。なぜなら好きで自分の感じ方に近くてあらゆる面で同化できてしまうようなツインソウル的な人と一緒にいる状態は幸福だと思う反面、もしその人がいなくなったら、片割れがいなくなった感を抱えて生きていかなければいけないし最悪、自分を支えきれずに心折れて生きていけなくなる恐れさえあり、とても危うさを実は孕んでいる気がしてます。
こう言っては何ですが、嫌いな人が仮にいなくなったら、いなくなったところで生きていけますやん。
嫌いな人が多い、というのは、おそらく無意識にそういう嫌いになってしまう人を自らが引き寄せていて
自分自身を確立する必要性を認識しようとしてるってことかと思うのですよ。
嫌いな人がいるのは自分を確立する為に必要ということになりますね。
もちろん関わりたくはないですが。
嫌いということは”重い”感情なので手放したいところではありますが。
実は自らが周囲に嫌いになりたいという波動をバラ撒いているということかもしれないですし。
で、最初の軽い波動の話なのですが、
人間ってやはり陰陽併せ持つ存在ですし
軽くなっていくっていうのは下手するとフワフワの天使のような存在になってしまって
影のできない存在に近づいてしまいそうでそれもまた怖いですね。
人間って光と影、常に陰陽をバランスよく保つことで存在しているので。
昨今の断捨離的に持たない暮らしも素敵ではありますし
確かに身軽ではあるでしょうけど
身軽さだけを強調しても
バランスという観点から見るとやはりそこには何か落とし穴があるのだろうな、と
少し感覚的に鋭敏になっておいてもいいのでは。
宇宙が成長しているために
波動を高めるために
”重い”波動の場合は置いていかれる、というのは
以前、都市伝説界隈で時々耳にした”人間選別”の別の表現のようにも思えます。
宇宙というより人間の判断がそこにあるのが伺い知れると言いますか。
・・・なのでスピリチュアルという”誘導ツール”で世論や子羊を動かそうとしているのでは、
というマーケティング戦略かなー等々
ある種の感度を維持しておかないと
もう簡単に大波に飲み込まれてしまいそうな
そんな臭いがするのですよね。
などと書いてはいるものの
とかくこの世は生きづらい、という重さがあるのも確かですし
そういう意味ではスピリチュアルによって救われることも多々ありますし
身軽になろうキャンペーンすべてが”操作”だとは思いませんが。(思ってるけど)
自分の立場を子羊ちゃんであると認識して
陰陽のバランスに基づいて物事を見る心眼を磨いていく、
”子羊的心眼力”を高めることがこれからのスピリチュアルに求められることかもしれないな
と思う次第です。
・・・でも軽い波動でいられるならその方がもちろんいいんですよー