Ⅲ 女帝

満ち足りた女性の姿。これは母であり妻であり、またひょっとしたら彼女は妊娠しているかもしれません。女性のありとあらゆる幸福を象徴するカードです。また実り豊かな豊饒さと成功も示しています。このカードが出た時は、成功や豊かさが暗示されています。暖かく良い家庭環境もあるでしょう。男性なら良い妻の存在、女性なら家族思いの女性である事が伺えます。結婚を暗示する場合もあります。芸術を楽しむことも運気アップに多いに役立ちます。
創作活動をされている方にも良いカードです。

タロットカード78枚意味と解釈
女帝(The Empress)より抜粋

タロット・ヴィジュアライズ・アート『Ⅲ 女帝』

タロットヴィジュアライズアート 女帝

2023年 シナベニヤに石膏 金箔 テンペラ
33.3×24.2cm
 
カードの意味
財産、富、物質的豊かさ、結婚、出産、女性性、芸術
 
豊かな生活を望む方や女性の幸せが欲しい方、
芸術的センスが欲しい方などにおすすめです。
皇帝とペアで夫婦の意味あいにもなります。

『女帝』のカードは美の象徴

タロットの『女帝』は美しさを表すカードです。金星のシンボルが描かれているカードもあります。
金星は美の女神ヴィーナスが守護神ですし、やはりこの美の世界を象徴しています。そして女性性を表しているので出産という意味もあり、子宝の意味もあります。そして財産という意味も出てきますので子孫繁栄にも繋がる女性のみならず誰にとっても幸運を象徴するようなカードですね。
 作品としての女帝は他の作品より少し大きめのサイズで制作しましたので思い入れのあるカードということになるかもしれません。ドレスの模様まで細かく描きたくなるだけの魅力あるカードです。ゴールドの箔が本物の輝きを醸し出し、さらにこの思い入れで制作したためか自分にとっても特別な作品とななったように思います。

美しさの定義は人それ

美しさといえば定義は人それぞれ。外見的な美しさは言うまでもなく、人の内面の美しさにまで意識を向ける人も多いのではないでしょうか。とはいえ、この内面の美しさというのも実はかなり相対的なものであり、人によって見え方は異なるので何が美しくて何がそうじゃないのか、その見極めも曖昧なものです。そんなときはついつい頼りたくなる文豪の知恵。ドストエフスキーは内面的な美について、やはりキリストの存在に触れています。

無条件に美しい人

美しさの定義は人それぞれであるとはいえ一方で誰もが美しいと感じる普遍的な美というものもあります。ここでよく取り上げているドストエフスキーは長編小説『白痴』を書くにあたって「無条件に美しい人を描く」という意図を持っていました。そして無条件に美しい人=キリストであるということで、主人公のムイシュキン公爵をキリスト公爵として無条件に美しい人を描こうとしていたとのこと。読み始めるとこれらのイメージとは少し異なって白痴、おばかさんという扱いから始まる人物が主人公なので「あれ?」という印象から始まりますが。

この物語はタイプの異なる2人の美女が登場します。
アグラーヤという良家の三女で美貌の持ち主、
ナスターシャ・フィリポブナという薄幸な生い立ちでそれゆえ野卑な態度を見せるがこれまた大変美しい美女。

アグラーヤは生まれも育ちも良いので高潔で無欠系の美女。主人公のムイシュキン公爵はこの女性に恋をします。公爵の善良さに惹かれてアグラーヤも彼を愛することに。

一方で薄幸な生い立ちのナスターシャ・フィリポブナ。公爵は彼女のその深い悲しみに憐みを感じておりどうしても見捨てることができない。アグラーヤを手放しても最後の最後までこの女性と共に在ることを選んでしまいます。

見た目は2人ともとても美しいが育ちの過程で内面も美しい美女と、少々あばずれな面を持つ美女、この2人の間で揺れる公爵。普通なら良家の高潔なアグラーヤを一も二もなく選びそうなものだが、公爵はなぜ薄幸なナスターシャに憐みを感じ最後まで付き添ってしまったのだろう。

”王道”を常に逸れ続ける

本人の意志に関係なく、『汚れ』てしまった者は
キリストと伴に歩むことが不可能になり、不幸な方向へ導かれてします。その可哀想なナスターシャを見捨てられないというのがキリスト的な在り方=キリスト公爵の在り方ということかもしれません。ナスターシャの振る舞いは実に複雑で理解に苦しむが、これが薄幸な者のひとつの特徴でもあり、自身の意志をすんなり主張するという”王道”を常に逸れ続けるものなのですね。ゆえに他者からは複雑でわかりづらくみえるということになる。

奥底に輝ける魂

このような真っ当さから逸れたナスターシャの振る舞いは不幸な生い立ちによって捻じ曲げられた何かの表象でもあり、であるがゆえに”キリスト公爵”はナスターシャを見捨てられなかったといえる。

ではナスターシャは本当に汚れた内面だったのか?
いや、登場時に白痴っぽかった公爵の善良さに惹かれたナスターシャは実は奥底に輝ける魂を有していたと言える。汚れた内面の持ち主はこのような白痴を嘲笑うだけで決して愛することはないのだから。

『罪と罰』に登場する娼婦ソーニャもこのような内面の高潔さを持っているが
ナスターシャもまた、その外面に表出される野卑で突飛な態度とは正反対の輝きを内に秘めた女性だったということになるのかもしれない。

自分の穢れを恥じているがゆえに

にしても運命とは残酷なものです。ナスターシャはティーンの頃、大人の男によって囲われていわばそこで汚れの道へ引きずり込まれてしまい、結果的にはアバズレ的な、真っ当さから逸れたマインドを余儀なくされたわけだが、このことが彼女自身を実は苦しめている。それはもう後戻りできぬ何かであり、罪穢れの類であるため、もはや美しい人(公爵)を心底望みつつもそこに飛び込むことさえできないほどに自分の穢れを恥じ入っているということになる。今の時代ならトラウマとかPTSDなどと診断されてしまう事態なのだろうか。でも文学的にそれらを物語ることで、彼女の苦悩が読む者により響き渡って物語の悲劇性に感応させられるので、私個人は今風なナントカ診断でさらっと終わられるよりは文学の香りの方が好みだし、より多くの情報が伝わってきて読了の歓喜を味わえる分、あっさりした味気ない心理分析ほどつまらんものはないなとあらためて感じさせられる次第です。

本当の美しさとは?
簡単には答えられない問い掛けではあるが、
ドストエフスキー曰く『世界を救うのは美』ということであり
『白痴』にはそのヒントが散りばめられている。のかもしれない。







『白痴』のナスターシャ・フィリポブナはマグダラのマリア?
『謎解き 白痴』江川卓 にはナスターシャをマグダラのマリアになぞらえている可能性を探っている部分があります。あとがきには「その予想は外れたようだが」とも書かれているのでどうやら違うらしい。

でも少し、共通するものは感じられるのでその見立ても捨てがたいという気もします。

カルロ・クリヴェッリ マグダラのマリア(模写)

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